2025年12月 2. 心の傾きと識別

 日本の教会は意向に「召命」を取り上げ、「特に、司祭、修道者が、私たちの中から召し出されますように」と祈るように、私たちを招いています。
 一人の若者が、神と教会への奉仕に一生をささげるという道を選び、神と人々の前でその約束を表明するに至るまでには、実に様々な体験の積み重ねと長い年月が必要です。体験の一つひとつの中で、自分が感じている招きが、本当に神からのものであるのか、そのときその場で識別した結果が、最終的に召命として実を結ぶことになります。
 召命への道については、どこかで何かのきっかけで、その方向に導かれている「心の傾き」を感じることから始まります。その場面は祈りの中に限ったことではありません。歌を歌っているとき、子どもたちと戯れているときなど、実に様々でしょう。この傾きをしっかりと受け止め、それを積み重ねることで識別を深めていくことになります。
 亡くなられた教皇フランシスコは、私たちに識別の大切さと、そのために日々行う意識の究明について語っていました。そして、その鍵は「悪」の誘(いざな)いを見抜くことだと教えています(『識別』69~74ページ)。
 今日の教会では、司祭の召命も修道者の召命も減少の傾向が続き、私たちは日々その促進のために祈りをささげています。ですから、ある若者が少しでも召命の道を考えていることを知ったならば、なんとかそれが実を結びますようにと祈りをささげ、また助言や援助を行いがちです。意識しないままに、その召命への招きが間違いなく神からの招きであるといった前提に立っているのでしょう。悪がその召命を望んでいて、私たちばかりか当人の心を導こうとしていることもありうる、これが教皇フランシスコの発した重要なメッセージなのです。
 心の傾きを感じたならば、それが神からの招きなのか、それとも悪の誘いなのかを、その時々で識別していくことが求められます。そして私たちはその識別を支え、時には手伝って、その人への神の招きをはっきりとしたものとして浮かび上がらせることが求められています。
 若者が「心の傾き」を敏感に感じとり、それを識別することができますようにと、祈りをささげてまいりましょう。