2026年1月 1. 祈りの材料としての聖書

 1月1日、「神の母聖マリア」の祭日を祝った一年がスタートしました。一日も早く戦争や紛争が終結して、穏やかな日常が訪れるようにと、年の初めに心を合わせて祈りましょう。

 教皇の意向は「みことばによる祈り」です。そしてその祈りが「生活の糧」となるようにと、一人ひとりが促されています。ところが、私たちはことのほか、この「みことばによる祈り」が苦手だと、自覚する必要がありそうです。

 私たちは教会生活の中で、聖書研究会や聖書勉強会に加わってイエスの愛のわざや正義に満ちた行いを学び、イエスの教えや預言者たちの知恵を身につけようと努めています。この姿勢は、私たちが聖書に触れる姿勢のひとつであり、とても大切なことです。しかしながら、聖書の「みことばによる祈り」には、この姿勢が役に立たないどころか、かえって邪魔にさえなってしまうのです。頭が働いているときには、心は固く閉じて動かないからです。

 祈りとは神との対話です。自分の思い、望み、願いなどを、全知全能で万物を創造された神に語りかけ、そして、神の望みや願いを、特に自分自身に対する神の望みや願いを、心で受け止める、双方向の営みです。「みことばによる」とは、こちらの側から語りかける神が、いかにいつくしみに満ちているか、その豊かさを聖書に記されていることばを読んでその心を汲み取り、それを思いめぐらし味わうことから始まります。この段階で求められる私たちの姿勢は、心で感じ取ることであって、頭で理解することや考えることとは異なる次元の営みなのです。

 しかし、みことばを心で感じることに慣れていない私たちは、知らぬ間に聖書を学ぶ回路になってしまう傾向があるのでしょう。なぜなら、長年にわたる教育の過程で、知らないこと、分からないことを放っておくことはよくないことだと、教えられてきたからです。祈るときには、覚えたり理解したりする必要など、全くありません。知らなかったことも分からないことも、そのままにしておけばよいのです。みことばに触れた瞬間は、神が私の心にも触れているときなのですから、その感覚を味わうことが最も大切なことです。

 聖書を学びの材料としてではなく、祈りの材料として用いることができるように、柔らかい心をもって聖書に触れる習慣を身につけてまいりましょう。